私は道を見失ったのだろうか。

2017年、福島2区から衆議院議員を目指して初めて選挙に挑戦して以来、8年以上が経ちました。この間、本当に多くの方々に応援いただき、支えていただきました。この場をお借りして、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

親戚に政治家がいるわけでもなく、華々しい経歴があるわけでもない。そんな「ただのおばちゃん」である私が、衆議院を目指す道のりは、想像をはるかに超える険しいものでした。

政治を目指したきっかけ

今では立派な社会人となった末息子が、まだ中学生だった頃のことです。
小池百合子さんが東京都知事選に挑戦するというニュースを見ていたとき、台所仕事をしていた私に、彼は突然こう言いました。

「そんなに文句があるなら、ママが政治家になって社会を変えればいいじゃん。」

自分では気づかないうちに、「どうせ誰がやっても変わらない」といった、投げやりな言葉を口にしていたのだと思います

もちろん、その時の私には、「そんなことは無理に決まっている」という理由はいくらでも思い浮かびました。けれど、不思議とその言葉を口にすることができませんでした。

「やってもみないで諦めるな」

そう子どもたちに繰り返し伝えてきた自分が、政治を何も知らないまま否定してしまうべきではない――咄嗟にそう思ったのです。

当時の私は、政治に特別な関心があったわけではありませんでしたし、政治が私たちの暮らしにどう関わっているのかも、十分には理解していませんでした。だからこそ、まずは学ぶところから始めようと思いました。

それから今日まで、政治塾に参加したり、政策学校に通ったりしながら、少しずつ学びを深め、政治への道を手繰り寄せようとしてきました。
その過程では、手を差し伸べてくださる方との出会いもあれば、つながりかけた糸が切れてしまうこともありました。振り返れば、長いようでいて、あっという間の年月だったように思います。

公党から公認を得て選挙に出るというのは、多くの方が想像しているよりも、ずっと難しく、細く、先の見えないトンネルを進むような道のりです。
そして、公認を得て実際に選挙に立てたとしても、その道を歩み続けることは、さらに険しく困難なものでした。

私の周りを見渡しても、立候補した仲間たちの中で、落選後もなお次を目指し続ける人はほんの一握りでした。まして、政党からの十分な支援を得られない環境の中で挑戦を続ける人は、ほとんどいなかったと言っても過言ではありません。

それでも私がこの道を諦めなかったのは、子どもたちが心から応援し続けてくれたからでした。

何度も投げ出そうとする私に、娘は、
「今ここで投げ出したら、ママは何一つ成し遂げられないまま終わるんだね。それでもいいけど」
と、胸をえぐるような言葉で背中を押してくれました。

また息子は、
「俺が火をつけたことだから、最後まで応援するからね」
と、どこか妙な責任感をのぞかせながら、疲れ切った私の心を支え続けてくれました。

今回の衆議院議員選挙に立てなかった理由

今年の一月の総選挙で、自由民主党は歴史的大勝を収めました。
比例名簿が足りず、本来であれば自民党が得られたはずの16議席を、他党に譲ることになったほどでした。

私は前年、自民党の「女性未来塾」の選考を通過して参加しており、その中でも高く評価していただいていました。最後には5位以内に入り、表彰と記念品まで頂戴しました。❤️

その後も、公募という公募に応募し続けました。けれど、なかなか書類選考を突破することができませんでした。悩みを相談すると、複数の衆議院議員の先生方から、
「年齢制限があるらしく、事務方で足切りされてしまっているようだ」
と耳打ちされました。

さらに、
「面接まで進めれば、絶対に評価されて通る」
「早く上がってきてほしい。即戦力として一緒にやりたい」
と、多くの先生方から励ましの言葉をいただきました。

その言葉を支えに、私は地道に努力を重ねてきたつもりでした。

そして、いよいよ解散総選挙――。
長く私を後押ししてくださっていた先生が、最後まで選対で粘り強く交渉してくださいました。けれど、比例名簿に私の名前が載ることはありませんでした。

これまで参加した政治塾では、常にトップクラスの成績を収めてきた。
それでも届かなかったのは、なぜなのか。

そんな折、父が倒れたという連絡が入り、私は故郷で選挙の行方を見守ることになりました。

そして後に、尽力してくださった先生が、悔しそうにこう話してくださいました。

「55歳という制限があって、それだけは越えられなかった」

私が本当の意味で絶望に突き落とされたのは、この時でした。

自分の努力では、もはやどうにもならない壁があるのだと、突きつけられた気がしました。
この8年間、何を着るか、何を食べるか、毎日をどう生きるか――そのすべてを、「国会に上がるため」に捧げてきました。だからこそ、凄まじい虚無感に襲われました。

もし目の前に、父の介護という現実がなかったなら、私は息をすることさえ忘れてしまっていたかもしれません。

絶望の隣に希望がある

これは、『アンパンマン』の作者である やなせたかし の言葉です。

消えていく命を懸命に生きる父のそばで、私は絶望と向き合いながら、「この苦しみを乗り越えられるのか」と、自分に問い続けていました。

同時に、
「なぜ私は国会を目指したのか」
「なぜ政治を諦めずにきたのか」
を、何度も何度も考え抜く日々でもありました。

絶望の中にこそ、本当に自分が望んでいるものが見えてくる。
私は、今そう感じています。

そのことについては、いつか改めて、皆さんにお話しできればと思っています。どうか楽しみにしていてください。

そして、もし年齢制限を設けるのであれば、それは最初から公表してほしいと、私は強く願っています。

16議席よりも。
年間5億円とも言われる政党助成金よりも。

それほど重い意味を持つのが、「年齢制限」なのであれば。そして政治を目指す人にとって強靭な壁になるのであれば。

自宅で看取るということ。

【父の帰還】

去る三月十三日、父が他界しました。享年93歳の大往生でした。

おりしも衆議院が突然解散となった1月下旬高熱を出して父は入院しました。1月上旬にも誤嚥性肺炎で入院していたことを踏まえると、予後は厳しいだろうという予測はつきました。しかし、母にしてみれば「肺炎」は「風邪をこじらせたもの」という認識が強く、誤嚥性肺炎はそれとは異質のものであることは到底認識できていない様子で、入院すれば元気に退院してくるものと信じて疑わなかったようです。

誤嚥性肺炎で入院すると、平均して予後は1年程度。父のように短期間にぶり返してしまったということは、嚥下機能が著しく低下していることが予想され、さらには、治療期間中は絶飲食となるため、嚥下機能はさらに低下することを鑑みれば、父の肺炎が急性期を脱したとしても、再び飲食ができるようになることはかなり難しい状況でした。

口からものが食べられなくなれば、胃瘻を設置して胃に直接栄養を送り込むか、中心静脈から栄養を入れるかとなりますが、CVの場合は管理が難しいため、施設など管理体制がしっかり取れるところで以後の生活を送ることが条件となってきます。自宅で過ごすことを考えれば、胃瘻にするか、絶飲食を受け入れるかになります。

母がこれを理解して受け入れることがこんなに難しいのかと、今回思い知ることになりました。胃瘻を設置しても、結局は体が栄養を受け付けなくなっていれば、余命をさほど伸ばすことはできないこともあります。唾液を飲み込むことで、誤嚥性肺炎をまた引き起こしてしまうこともあります。兄も妹も自然に見送りたいという意志が強く、胃瘻には否定的でした。母も同様で、穏やかに過ごさせてあげたい、自宅に連れて帰って自宅で看取りたい、体に穴を開けたりはしたくないと明確に意思表示をしていたため、病院側には胃瘻はやらないこと、急性期を過ぎれば、退院して自宅で看取ることを早期から伝えることができました。

母は全てを理解して、この決断をしたのだろうと誰もが思いました。

でも。

穏やかに自然に、ということが意味するところを母は本当には理解していないことが、自宅での介護がスタートしてから露見してくるのでした。これは本当に大きな誤算でした。

それでも、病院側とはしっかりとした説明のための会議も開いていただき、地域包括医療センターのチームの皆様、ケアマネージャー、訪問看護の皆様にもご足労いただいて、父の状況、退院後に対する注意事項など事細かにご説明いただきました。自宅では、私と介護福祉士である娘が24時間体制で介護をすること、必要な福祉用具については事前に手配済みであることなどを説明し、体制は万全であることを確認したのでした。

2月25日父は自宅に戻りました。2月28日家族総勢17人が集まって父の誕生会を行いました。父は表情も柔らかで、楽しそうに笑顔で過ごしてくれました。生きている父と過ごす時間はもういくらも残されていないことを誰もが認識し、遠方からも孫たちが駆けつけて最後の時を過ごすことができたことは、本当に喜ばしいことでした。それが父と母の最後の望みでもありましたから。

【地域格差の壁】

私の故郷は、日本三景で名高い「松島」です。松尾芭蕉が言葉を失うほどの絶景だと称賛したほどに風光明媚な所。年間に300万人もの観光客が訪れる地域です。しかし人口の流出には歯止めがかからず、人口1万2千人ほどの小さな町になってしまいました。小さな町が故に、介護サービスは行き届かず、夜間の訪問介護などもありません。父が入院した のは隣の市、塩釜でしたが、この市立病院も市内であればある程度の介護や看護の体制を供与してくれるのだそうですが、松島は対象外とのことでした。過疎化する地域には高齢者が取り残されていくのに、そうした地域ほど介護サービスは行き届かない・・・。こうした矛盾が重くのしかかります。

また古い地域ですから、施設介護に対する強い偏見もあります。「あそこの家では施設なんかに入れている」というような言い回しがされてしまうのです。介護する側にとっても、される側にとっても負担のない心地よい生活を実現するのはとても難しいことでした。

【母の誤算】

自宅に戻ってからの父は、とても穏やかに自然な時間を過ごしていきます。すでに静脈からは点滴を入れることができなくなっていたため、皮下で点滴を入れることになり、一日に500mlほどの点滴がスタートしました。1日に数回喀痰吸引を実施し、体を清潔に保つことや、皮膚状態をよりよく保つためにできるだけの介護は行いました。訪れる看護師の方も、医師も、父の状態が非常に良いということを賞賛してくれていました。

それでも母は一日一日と時間がたつほどに「こんなはずではなかった」「あんたたちがいるから思うような介護ができない」「もう出て行ってくれ」などと言うようになっていくのです。

母からすれば。

退院するということは「元気になって」帰ってくるというイメージが強かったようでした。これまでも何度か入退院はありましたから、退院してくれば重湯から始めて柔らかいお粥を食べさせてあげられるようになるに違いない、歩行器を使って歩けるようになり、やがて訪れる春には田植えをし、夏には松島を華やかに彩る花火を楽しみ、秋には米の収穫を、冬には牡蠣の収穫をといつも通りの一年がやってくると信じて疑わなかったのでした。あと3年は生かしてやりたいのよと目を輝かせる母に、退院したら1週間から長くても2週間程度しかもたないと何度も説明してきた私の言葉は何一つ届いていないようでした。

また、幼い頃から自分が経験してきた「当たり前」から脱することができないというのも、大きな壁になりました。熱を出したら暖かくしてあげるべきだ(高齢者の場合は体温調節がうまくいかないので、発熱した場合は、掛け物を薄くするなどして体を冷やすことが第一とされる)無理してでも食べないと元気になれない(嚥下機能が低下している時には、むせこむなどした場合は食事を中止する方が健全。補完するための栄養補助食品も多数あるので、そうしたものを利用して少しずつ、無理のない範囲で摂取させる)というようなことです。自分の知っている「良いこと」が通じないことは、母を苛立たせてしまうのでした。

やがて皮下での点滴も入らなくなっていきました。500mlを落とすのに13時間もかかるようになり、落とした薬剤も背中側に回るだけで体には吸収されず、全体にむくみがひどくなっていきました。医師と相談し、点滴も中止することになりましたが、母は「ならばどうやって生きるのだ?水分も栄養も取らずにどうやって生きていくのだ?」と感情を泡立てます。父にとっては穏やかで苦しまない方法を選ぶことが、母にとっては一つ一つが死の宣告にしか聞こえず、頭では理解しても心が追いついていないようでした。

介護に自分も参加したいと言いながら、痩せ細っていく父の体を見るのは嫌で、顔以外の体に触れようとはしませんでしたし、どんなに止められていても隠れて水を飲ませたり何か食べさせようとしたりを繰り返します。その度に激しくむせこんだり、痰が急に増えて苦しんだりする姿を母は見ようとしません。そうした矛盾を抱えながら確実に最後の時は近づいてきます。

【私の後悔】

3年は一緒に生きていくのだと目を輝かせていた母も、日毎に状況を受け入れていくしかない様子でした。それは決して穏やかなものではなく、周囲にいる私たちに毒を吐き続けることで成り立っていたように思います。私と娘は夜中の3時に交代して、24時間で父を介護し続けました。家事も全て放棄してしまっている母に変わって、家事も全てこなしながらでした。その私たちに対して「お前たちはお父さんが死ぬのを待っているのだ」「年寄りだから早く死ねばいいと思っているのだ」「見放しているくせに専門家ぶって偉そうに」口汚ない言葉が終始浴びせられます。娘も疲れ切ってしまい「もう帰ろう」「もう嫌だ」と何度も泣きます。娘二人と私とで夜中に慰め合って涙を流すような毎日でした。眠れなくなって、排泄のコントロールもうまくいかなくなってきている母に安定剤と睡眠導入剤を処方してもらい、薬の力を借りて少し穏やかさを取り戻していきました。家で最後の時間を過ごしたいと熱望する父と母の願いを叶えることが、娘たちを深く傷つけ、苦しめてしまうことになるとは・・・。

【娘の意地】

私の長女は介護福祉士として現場で10年近くも経験を重ねてきている介護のプロ。今回の父の看取り介護に赴くにあたって、彼女は「最高の介護で、お祖父さんを見送ってあげたい」とついてきてくれました。父にとって家で過ごすというだけでも最高の最後の時だったと思いますが、娘はそこに色々な工夫を凝らしてくれました。私はそこにプロとしての矜持を感じました。体を清潔に保つだけでなく、クッションを使って安定した体制を作る、発熱しないようにまめに検温をして掛け物調整をする、端をこまめに取り除いてあげるといった「マイナスをゼロにする」ことはもちろんのこと、口の中が乾いてしまうので、口腔ケアは1日に何度も行い、父の身体の状況は皮膚状態も口の状態も医師や看護師が舌を巻いていました。加えて「お祖父さんが喜ぶことをしてあげたい」と食べられなくなった父のために、苺の汁をスポンジブラシに吸わせて、これを絞って口の中を拭いてあげるのでした。父は苺が大好物ですから、口の中に苺の爽やかでほんのり甘い香りが広がるのをとても嬉しそうに楽しむのでした。他の食べ物でも試してみましたが、苺を一番喜んでくれていました。香りが高い果物はこうして楽しんでもらえます。苦しみを取り除くだけでなく楽しみを加えてあげられる「プラスの介護」をする娘の覚悟に深く感謝する毎日でした。

【父の覚悟】

周りのそんなドタバタをよそに、父は日毎に生気を失っていきながらも穏やかに過ごしていきました。苦しむ様子もなく、体の状態も良かったこともありますが、父の覚悟を私は感じていました。3月11日の夜半にはバイタルもかなり低下し、いつ呼吸が止まってもおかしくない様子となり、私は兄弟を呼び寄せて、皆で枕元を囲みました。そこから13日の11時半に呼吸が止まるまで、父は7回も呼吸が止まりましたがまた復活していきました。心臓がとても強い人だったのです。脈が弱くなり呼吸が浅くなっても、私たち兄弟や孫たちや母が皆で集まって声がけをすると再び脈が強くなり、止まりかけた呼吸も復活していくのです。その度に残される私たちは少しずつ心の準備が出来ていったのでした。13日の朝、父は多量の便を出しました。1週間前に排便が見られてからはなかったので、お腹の中にあるものを全部出し切ったのかなと思いました。8回目に呼吸が止まった時には戻ることはもうありませんでした。11時半に呼吸が止まったことを訪問看護センターに連絡し、すぐに来訪した看護師が呼吸停止を確認し、医師が死亡宣告をしたのが12時4分。看護師とともにエンゼルケアを行なったのですが、朝排便を済ませていた父は綺麗な状態でその時を迎えることができていました。「本当に始末の良い方ですね」と看護師が驚いていましたが、表情は穏やかで笑顔を浮かべてさえいましたし、体も綺麗で、自宅に戻ってからの17日間の間に、自分の旅立ちのために覚悟を持って時間を過ごしていたのだと思います。その姿は尊厳を保って死ぬことの美しさを私に教えてくれました。

【自宅で看取るということ】

最後の時間を家で過ごせる人は一握りだと、病院のスタッフが話していました。最初は誰もがそれを望むけれど、土壇場になってやはり療養型の病院や受け入れてくれる施設にとなることがほとんどなのだそうです。介護の体制を作るのが難しい、死んでいく身内を看取る覚悟ができない、いざとなったらどうしていいかわからないからなどの理由で、やはり自宅以外で息を引き取るまでの時間を過ごすことを選ぶのだそうです。

私たち家族が選んだ「自宅で看取る」ということは、私の想像を遥かに超えて大変なことでした。介護の体制を整えることや、死を迎える準備については何も不安はありませんでした。難しかったのは死を残される人たちがしっかりと受け入れていくことでした。理解することと受け入れることには大きなギャップがあります。病状を説明されて、予後を説明されて、経過を説明されて、どんなに詳細にいろいろなことを説明されても、心がそれを受け入れることとは全くの別物でした。介護現場にいる人にとっては「当たり前のこと」が目の前で死を迎える人を看取る家族にとっては異質なものだったのです。受け入れ難いことだったのです。施設で亡くなる場合にはこうした心の葛藤を避けられるのだなあということも学びました。

自宅で看取ることは、とても美しく、とても優しく、とても温かい。同時にとても残酷で厳しい。

どんな死に様を迎えるかは、どんな生き方をしてきたかにかかっていると、今回の父の死を通じて痛感しました。父は穏やかで物静かな人でしたから、その死に様もとても穏やかで静かなものでした。父をそんなふうに見送ってあげたいと家族の誰もが望んだのは、父が家族にたくさんの愛情をかけてきたからなのでしょう。私や娘たちが苦しいと思いながらも看取り介護を続けられたのは、父に穏やかな最後を迎えさせてあげたいという一心だけでしたから。

妹の舅がこれから同じような経過を辿りそうです。妹は今回の父の看取りで多くのことを学べたと言っていました。妹の夫も何度も家に来て、私たちの介護の様子を見て、用具を揃えたり、使い方を学んだりしておられました。その上で、やはり自宅で看取ってあげたいのだと話していました。間近で看取りを体験できたことは妹夫婦にとって貴重な時間だったようです。

介護の体制を整えること、地域医療との連携を図ることはもちろん、家族の気持ちを整えていくことが自宅で看取ることの最大の課題です。事実を理解することではなく、心で納得すること。医療機関従事者の皆さんもこれにとても苦労なさっておられるとか。亡くなっていく方にとって望む最期を叶えることを一番に考えられた今回の看取りは、最終的には皆にとって満足度の高いものになったように思います。私にとっても学びの多い時間でした。

お父さん、ありがとうございました。天国で穏やかな日々を過ごしてください。合掌